アイワークス神戸三宮で生活訓練の支援員を務める小池さん。静岡県出身、筑波大学大学院博士課程を修了し、大学教員として研究に打ち込んだ後、アメリカで4年間の研究生活を送った異色の経歴の持ち主です。研究職から障害福祉の世界へ転身したきっかけや、支援員としてのやりがいと葛藤を、インタビューと対談でお届けします。

インタビュー

生活訓練の事業所、アイワークス神戸三宮で支援員をしている小池です。出身は静岡県の菊川市という町で、今は神戸市内に住んでいます。最終学歴は筑波大学の大学院博士課程です。趣味はカフェに行くこと。神戸に戻ってきてから元町のあたりをプラプラしているうちに、たくさん良いカフェがあることに気づいて、一つ一つ回ってコーヒーを飲む時間がとても好きになって、続けています。

小さい頃は元気な子でした。ちょっと元気すぎるところもあって、小学校のときは思ったことをそのまま先生に言ってしまい、叱られることはよくありました。楽しい小学校時代を経て、中学高校からはあまり周りとうまくいかないところもあって、だんだん静かになっていった感じがあります。

実家がもともと酪農家で、酪農自体は僕が小学校の頃に終わったんですけど、そういうものに触れて育ってきたので農学部に入りました。ところが3年生の卒業研究で配属された研究室が、農学部なのに動物を使った癌の研究をしているところで、そこで医学の基礎研究に触れて、その面白さを知りました。指導教授が退官されたので大学院は別のところを受験して、修士課程・博士課程と進みました。その後は大学の助教として研究室で研究をする生活で、山梨大学から神戸大学、そしてアメリカに4年ほど行かせていただいて。福祉とは全く関わりのない研究者人生でしたね。

福祉に来た経緯は、アメリカの契約が終わって日本に帰ってきて、日本の大学で独立しようと思っていたらうまくいかず、研究を続けることを断念せざるを得なくなったんです。何をしようかというときに、僕の奥さんが生まれつき右側の耳が聞こえない人で、結婚した後に残った左耳の病気で聴力が上がったり下がったりするようになった。ひどいときは全然聞こえない状態で、かなり精神的にもしんどくなって辛い時期がありました。そのときにそばで話を聞いて励まして、何とか力になりたいと一生懸命やっていたのを彼女が見ていて、福祉の仕事が向いているんじゃないかと勧めてくれたんです。彼女も日本に帰ってから障害者手帳をもらって、私は障害福祉の分野で求人を探していてアイワークスに出会い、運よく拾っていただいたというのが経緯です。

精神障害の福祉を選んだ理由でいうと、奥さんの場合は耳で身体障害なんですけど、耳の状態が一番良くないときには心の状態もかなり不安定になって落ち込んでいた。落ち込んでいる彼女の話を聞いて励ますことをやってきたので、身体のサポートだけでなく精神のところにも通じるものがあったという感覚があります。

アイワークスを選んだ理由は、お恥ずかしいんですけど、ここだったらやらせてもらえると思いました。右も左もわからないところから入ってきて、公認心理師の支援員の話を聞いて、心理的なアプローチという役目があることを学んで。河合隼雄先生という精神の分野で大きな方のお名前を知り、傾聴というアドバイスするのではなく話を聞くことが一番効果的な方法だと学びました。話を聞くことがそんなに大きな意味があるのかと。僕はすごく狭い分野にいたので、家庭環境や職場での人間関係で苦しんでこられた方たちの生の話が聞けて勉強にもなりましたし、寄り添うだけでもだんだんその方たちが少しずつ前を向いていける、そのお手伝いができてきたのかなという感覚です。

生活訓練の支援員になってからは、睡眠や食事のアドバイスが具体的に役立つ場面がやりがいになっています。睡眠がうまくいかないと心と体の一番土台の部分が危うくなるので、そこに関するお手伝いができているときは、良かったなと感じます。

大変だなと思うのは、辛い日々を過ごしてきた方ほど自己防衛として攻撃的になることがあって、僕の言動が気に障って怒りになったり、逆に泣いてしまったり。生身の人の感情がぶつかってくるので、そこは大変です。

発達障害の方の手帳の分類が精神であることについて、発達障害は生まれ持った要素があるものなので、別の枠組みで支援ができるようになった方がいいのかなと思うことはあります。ただ、発達障害という括りの中にもADHD、ASD、LDといろいろな分類があって、一つのワードだけでも個性や色は様々。決めつけないように気をつけなきゃいけないと心がけています。障害福祉全体の課題としては、福祉に関わっていない方たちが、障害で苦しんでいる人たちのことをどれくらい知って理解していくかということだけでも、皆さんが生きやすい世の中になるのではないかと思います。小学生の頃から、いろんな人がいるけどそれはおかしいことじゃないよねという教育があってもいい。子供って自然に受け入れるじゃないですか。子供のうちからそういう機会があれば、差別や偏見を減らしていけるのではないかと。

成功した支援について、これが大成功だという感覚は持てたことがないですね。アイワークスは担当制ではなく、みんなで関わってみんなで助けていく。「俺がやってやった」と思ったことはないです。ただ、就職が決まって卒業式をやるときに、ご本人が自分の努力で一歩ずつ進んでここまで来られたんだなと、感極まることはあります。でもそれは僕がやったことではなくて、後ろからお手伝いしたり横から声をかけしたりしていただけで、道を歩いたのはご本人だなという感覚は常にあります。

失敗した支援もあります。まだ仕事を始めて間もない頃に重要な役目を任されていたとき、利用者さん同士のトラブルが起こって、僕がうまく立ち回れず、先輩や上司に相談するタイミングも逃して、最終的に利用者さんが辞めてしまった。チームでやっているからこそ報告・連絡・相談をしっかりやって、1人で抱え込まずに手伝ってもらう。それが一番大事なことだと痛感しました。

「良い」就労支援とは何か。その方が求めるものがちゃんと提供できて、ここに来て良かったなと思えるくらいに生活が良いものになること。それができる事業所が良い事業所だと思いますが、実はものすごく簡単じゃない。自己理解のお手伝いをして、ご本人が言語化できないようなところを汲み取って道を示すお手伝いをすること。困っている状態から困っていない状態に持っていくのをスモールステップ、マイクロステップで。アイワークスではそれを先輩たちがやっているのを間近で見て、勉強させてもらっています。目標は、先輩から学んでいることを自分でもできるようになって、幅広い方のお手伝いができる支援員になることです。

ロールモデルを探している方へ。人間関係で苦しい思いをされてきたのなら、この世界って辛いなという思いがすごくあると思います。でも、そういう場所だけじゃない。安心して信頼して過ごせる場所がある。僕らはそれを提供しているつもりです。そういう場所があるんだと信じて、ちょっと足を運んでみてほしい。ここからなら安心してやり直せそうだなと思ってもらえると思うので。

対談 研究者から支援員へ、アメリカ生活を経て

ーーー前職で大学の教員をやられていて、研究員として研究室で仕事をされている中で4年間アメリカに行かれたとお伺いしました。小池さんご自身もASD的な特性があるかもしれないと感じていらっしゃるということで、アメリカという場所の肌への合い方をお聞きしたいんですが。

行っていたのはミシガン州です。五大湖のあるところで、デトロイトの隣町みたいなところにあるミシガン大学で研究をさせていただいていました。大学の街なので治安も良くて、リスやウサギ、鹿までうろついているような自然豊かな環境でした。ただ冬はすごく寒いんですけどね。

ーーー日本での生活とアメリカでの生活、どちらが肌に合いましたか。

何かが楽になった感じがあって、何かあったものがなくなった感覚がありました。ただそれは、よそ者として街で生活している気楽さだったのかもしれないですけど。

ーーーASDの方が日本だと生きづらいという話はよく聞きますし、アメリカやカナダに行ったら輝けるのにと言う方も多い。僕としては、場所を変えたからといってという気持ちもある一方で、心機一転で海外に行って違ったという方もいるので、一概に否定するでもないなと思っていまして。ただ人付き合いが苦手な人の逃げ場って世の中にはあまりなくて、最低限のコミュニケーションはどこに行っても必要じゃないですか。

確かにそうですね。アメリカも自由の国っぽいけど、意外と人と人とのつながりはあるし、ヨーロッパに行ったら階級が加わる。ただ、人目は気にしなくてよくなるというのはあります。

ーーー辛かったことはありますか。

シンプルに言葉です。英語はそれなりに勉強してきたし、国際学会で発表もしていたんですけど、電話には苦労しましたね。家族みんなで渡米したんですが、1人だったら楽しむ余裕がなかったかもしれない。

ーーー海外に行きたいという方へのアドバイスはありますか。

研究室の皆さんが手を貸してくださったので大きな困り事はなかったんですが、保険と税金は日本と全然違う。保険会社の種類によってはサポートが全くなかったりする。最初に入った保険から、研究室のメンバーに勧められて変えたら、無料で歯医者に行けるようになったり、奥さんの手術もカバーしてもらえた。そこで知っている人に聞くというのは大事だなと思いました。どこに行っても必要なのは結局人脈で、そういう意味でもコミュニケーションから逃れることはできないんだろうなと感じます。

編集後記

小池さんの経歴を聞いたとき、農学部から癌の研究、大学教員を経てアメリカへ、そして障害福祉の支援員。振れ幅が大きいなと思いました。けれど話を聞いていると、一つ一つの転換にはつながりがあって、特に奥さんの聴覚障害に寄り添う中で福祉を勧められたというエピソードには、無理のない流れを感じました。

対談で話題に出た「海外に行けば輝けるのか」という問いは、発達障害の当事者からよく聞くテーマです。小池さんが「何かあったものがなくなった感覚があった」と語った言葉には実感がこもっていましたが、同時に「よそ者としての気楽さだったかもしれない」とも言っていて、安易に海外を勧めるでもなく、否定するでもない。どこに行ってもコミュニケーションは必要で、そこで頼れる人がいるかどうかが鍵になる。そういう落ち着いた見方が小池さんらしいと感じました。

支援の話では、「道を歩いたのはご本人」という言葉が印象に残っています。成功を自分の手柄にせず、失敗からは報連相の大切さを学ぶ。研究者として長く過ごしてきた方が、右も左もわからないところから始めて2年でここまで考えられるのは、傾聴を学んだことと、チームの中で自分の役割を見つけようとする姿勢があるからだろうと思います。